2006年06月04日

事実を確認し 論理→意見→感情へ

このところ、ネットでさまざまな小論文や意見を読むにつけ、いかに今まで人の言葉を安易に信じ込んできたかにがく然としています。新聞やテレビで言っていたとか、本に書いてあったとか、専門家が言っていたとか、そういう外面で判断していることのなんと多いことか。

「ダイオキシンはサリンの何倍もの毒性があるから危険」、「イラクは大量破壊兵器を持っているからやっつけよう!」、「○○は健康にいいのでたくさん摂ろう」等々、科学・歴史・政治・社会・教育・健康など、あらゆる分野でどれほど多くの"事実"が否定されてきたことか。

私たちのほとんどは、事実を自分で確認するだけの知恵も知識も能力もないのですから仕方がないと言えばそうかもしれませんが、それでも人の言葉を鵜呑みにしないで、とりあえず疑ってみる、自分の頭で考えてみるということは大切なことなんでしょうね。

二人の人が何かのことで争っているときに、一方の言葉だけを聞けば、相手が悪いと思い込まされるものですが、他方の言い分を聞いてみれば、まったく違った見方があるものです。ですがこういう場合、往々にして最初に聞いたことを信じてしまいがちです。

例えば電車内で、女性が「この人、痴漢です!」と叫んだら大抵の場合それを信じて、正義感の強い男性は"痴漢"を取り押さえるかもしれませんが、女性の勘違いや時には単なる憂さ晴らしから言ってみただけということもあるようです。無実なのに痴漢の汚名を着せられ人生まで狂わせられてしまう男性は本当に気の毒としか言いようがありません。

女性にしても、本当にその人だと確信もなくいい加減なことを言うのはやめるべきですが、ぬれぎぬを着せられた男性が無実を訴えても信じず、有罪にしてしまったり解雇したり、白い目を向けたりということも避けるべきなんでしょうね。冤罪(えんざい)が本人に及ぼす影響は取り返しのつかないものになり得ます。

私たちも、確かな根拠もないまま何かを信じ込んだり、誰かを激しく非難したりすると、場合によっては取り返しの付かない失敗をしてしまうことがありますから、何かを裁くときには慎重にしたいものです。

ダイオキシンや塩ビについて調べていて見つけたサイトに、名古屋大学の武田教授のページがありますが、物の見方・考え方がとても勉強になります。物理がご専門のようですが、歴史や哲学など幅広い教養から紡ぎ出される言葉は、物事の本質を捉えるように助けてくれると思います。

悩める学生向けに書かれたページ、「事実・論理・意見・感情」の中でこんなことをおっしゃっています。
 「みんな錯覚していたと思う。事実をよく観察し、その後、論理を立てることが必要だ。しかし、社会の多くの解説や論評などは、意見が先にきて、後から事実が追っかける。」

「それだけならよい。時には、「感情」が先走って、その後に「意見」、それから無理に「論理」をたて、それに適合する「事実」を探す。酷いときには自分の感情と相容れない事実を書かなかったりする。」

 「科学的な研究でも私たちは、最初に先入観や意見、希望、感情が入ることを大変、警戒している。人間は「そう思いたいということを事実と信じる」というのはダーウィンの言葉であるが、本当に、そのような経験を良くする。」

 「ある物事を理解し、それに対する自分の態度を決める場合、
事実 → 論理 → 意見 → 感情
と4段階で行くのが良い。事実をまずしっかりと認識し、その後、論理が破綻していないかをチェックする。そして、必要に応じて意見を持ち、あまり感情でものを判断しないように心がけるのだ。」

 「社会はこの順序が逆になっている時がある。まず感情が先にあって「あいつは嫌いだ!」から始まり、嫌いだから相手の欠点を見いだして意見を構築する。事実自体をねつ造したくなるものだ。」

 「感情的な結論はえてして自分の利己的である。だから、何とか屁理屈はつけられても感情から出発した論理は正当ではない。特に技術者や科学者は「事実」に素直でなければならず、また「論理」が通っていないことを疑う習慣をつけておかなければならない。」
事実を重視する科学でさえ、この間のES細胞のようなねつ造があるのですから、他の分野はなおのこと事実かどうかの確認と安易な決めつけを避けた方がいいですよね。

真に教養のある人というのは、物事を総合的に見て判断し、簡単に決めつけたり非難したりしないものかもしれません。いま自分が信じていることは、明日、覆されるかもしれないのですから。本当に公平であれば、他人を疑うだけでなく自分自身をも疑ってみる必要はあるはずです。常に100%正しい判断のできる人はいませんから。

この武田教授の姿勢って、とても好きです。たぶん似たようなお人柄ではないかと思うのですが、作家の庄司薫さんの恩師であった丸山眞男さんが、「自己内対話 3冊のノートから」の中でこんなことを述べていました。
<国際交流よりも国内交流を、国内交流よりも、人格内交流を! 自己自身のなかで対話をもたぬ者がどうしてコミュニケーションによる進歩を信じられるのか>

<俺はコーヒーがすきだという主張と俺は紅茶がすきだという主張との間にはコーヒーと紅茶の優劣についてのディスカッションが成立する余地はない。論争がしばしば無意味で不毛なのは、論争者がただもっともらしいレトリックで自己の嗜好を相互にぶつけ合っているからである。自己内対話は、自分のきらいなものを自分の精神のなかに位置づけ、あたかもそれがすきであるかのような自分を想定し、その立場に立って自然的自我と対話することである。他在において認識するとはそういうことだ>

自分の好き嫌いで感情的に他の人と対立するよりも、相手の立場を想定して自分自身に反論をぶつけてみるということでしょうか。相手の立場になって物事を考えられず、持論を押しつけるだけでは、その人の周りに平和は訪れないのでしょう。

ほぼ日刊イトイ新聞に連載されている山田ズーニーさんの「おとなの小論文教室。」の2000-08-23にこんなことが述べられていました。
私は常ひごろ、表現というものは、「なにを言うか」より「どんな気持ちで言うか」がすごく大事だと思っています。その人の根っこにある想い・動機。これを「根本思想」と言います。

根っこの気持ちがLOVEだったら「バカ!」って言ってもあったかいし、根っこの気持ちが軽蔑だったら「おりこうさん」と言っても冷たいんです。さらに、根っこに軽蔑をためた人から発せられる言葉は、何を言っても、どう言っても、冷たいんです。

エゴから発した表現は人に伝わりません。

いま思い出したのですが、ウソ発見誌『週刊金曜日』の5/19号にこんな記事が載ったようです。安田弁護士を守れ
最高裁弁論を欠席した安田好弘弁護士に対するメディアの執拗な「リンチ」状況に対峙しようと、13日、宮崎学、魚住昭氏らジャーナリストや知識人が、東京都内で緊急集会を開いた。
山口県光市の母子殺害事件の裁判に欠席したことに対するメディアの反応です。調べてみると欠席にはやむを得ない事情があったようです。こちらのブログ→「癇癪フロッグの日常」の 5/15前後に詳しく書かれていました。

ついやってしまいがちですが、事情を知らずに安易に人を批判すべきじゃないんですね。批判をした側はそれを忘れるだけかもしれませんが、バッシングされた側には深い傷が残ってしまいますものね。

事実を確認するのは難しいですが、メディアの情報や人の言葉をすぐに信じ込んで感情的な反応をするのではなく、何が事実なのだろうかと少しは自分の頭で考えてみるよう注意していきたいものだと思いました。
posted by 野バラ at 16:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | 生き方
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